シリーズ「コロナと教育」(森秀樹教授インタビュー1)

#インタビュー #コロナと教育 #森秀樹

コロナ・パンデミックは、私たちに、容易に後戻りできそうにない「新しい日常」をもたらしました。私たちの社会や文化そして教育は、これからどこへ向かっていくのでしょうか。
シリーズ「コロナと教育」は、本学の教員に、それぞれの専門領域の見地から、コロナのこと、教育のこと、人生のことなどを語ってもらうインタビュー企画。その第一弾は、哲学が専門の森秀樹教授です。

インタビューとは、inter・view。つまりお互いに見合うこと。だから、インタビューは本来的には話す人と聞く人が固定的な関係ではなく、対話する関係でなければならない。という条件付きで、インタビューを引き受けていただきました。黒子に徹するつもりだったインタビュワーの私たち(佐田野+永井)は、そんなわけで、狐につままれたような面持ちになりながら、当日待ち合わせの場所へ。すると、そこには既にホワイトボードにぎっしりと端正な板書が仕込まれていて...。
二日間(計四時間)にわたり行ったロングインタビューの模様を、全三回に分けてお送りします。

|話し手|森秀樹教授 |聞き手|佐田野真代(広報室員)・永井一樹(広報室員)

第1回:Absolute Terror 絶対恐怖

森:一応、このテーマで考えたことを板書しておきました。ざっと見てもらって、なんとなく気になったことや、もっと聞きたいというところがあれば、そこからお話しをしましょう。お二人もどんどん書き込んでいってください。

S:緊張しますね〜。

N:コロナがテーマということで、ウイルスの記述が多いですね。僕、生物が大の苦手なんですけど、「セントラル・ドグマ」って何ですか?佐田野さん知ってる?

S:私は、エヴァでしか知らないですね。

N:エヴァ?

森:永井さんは多分知らない。

S:観たことないですか、エヴァンゲリオン。

N:ないですね。それに出てくるんですか。

S:セントラル・ドグマに、アダムがいるんです。

森:そう、アダムがいるんですよ♪ セントラル・ドグマって、生物学の概念なんだけど、それを監督の庵野秀明さんが援用して、あらゆる生命の起源がある場所として使っている。一応、ATフィールドというのも板書しておきましたけど、佐田野さん、ATフィールドって何ですか。

S:心の壁です。

森:そう、心の壁。通常兵器では、エヴァンゲリオンは倒せないんです。なぜかというと、ATフィールドという、ものすごく強い壁で守られているから。ATというのは、Absolute Terror(絶対恐怖)なんですが、つまり、自分にとって踏み込まれたら困る領域を守る壁をシンボライズしているんですね。


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で、「人類補完計画」という話があるんですが、それはみんな、ATフィールド(心の壁)があるので仲良くなれない、寂しいよねということで、その心の壁を取っ払って、みんな一つになりましょうという欲求を一方で持つのだけれど、それってどうなの、何か気持ち悪いことだよねっていうのが、話の大枠です。

N:へえ~。

森:いきなり、脱線してすいません。でも、今回のテーマに寄せると、ウイルスは、しばしば生物の膜(境界線)を侵すものとしてイメージされます。

自分と他人とを区別したいんだけど区別しきれない。それが生き物の特性。

森:生き物はすべからく、膜という境界線をもっていますよね。境界線がないと、どこまでが自分でどこからが自分でないか、わからなくなってしまう。ところが、膜が完全だと生きていけないのです。だって、呼吸しないといけないし、食べ物も食べないといけない。ということは、生き物というのは、常に矛盾したことを強いられている。外との間に開口部を持っていて物のやりとりをしなければいけないんだけれど、でもその境界線は守らないといけない。つまり、何が自分で何が自分でないのかを区別しないといけない。タコが魚に足を食われながら、「ああ、ワシ食われとるなぁ〜」とのんびりしているわけにいかないわけです。

自分と他人とを区別したいんだけど区別しきれない。それが生き物の特性です。そこに、パラドックスがある。人間もたぶんそうですよね。自他を区別したい。自分に踏み込まれると怖い。かといって無視され続けると、とてもつらかったりするわけです。でも、ウイルスはそんな境界をすり抜けていくものと考えられています。そこで、ウイルスはそういうパラドキシカルなものをシンボライズすることになります。

N:なるほど。ところで、話戻りますが、セントラル・ドグマって結局何なんですか?

森:DNAが生物の設計図だと言われていますよね。で、それをRNAで少しずつ写しとっていって、そこからタンパク質を合成して生物の体を作っていくというのが、20世紀後半以降の生物学の原理(セントラル・ドグマ)として、ずっと言われているわけです。

でも、最近はDNAが設計図どおりに機械的にタンパク質を生み出すかというと、そうでもないと言われてきています。どんな環境下でDNAのコピーが生じるのかとか、そもそもどの部分のDNAを読むのかというのは、環境によって変わってくるということが言われています。つまり、同じDNAなんだけど違った表現型が現れてくる可能性がある。

これに関連して面白いのが、水平伝播です。ダーウィンの「種の起源」では、木構造のように生き物が分岐して進化していきます。だから、ちゃんと先祖をたどっていくことができるという考え方なんですが、水平伝播というのは何かというと、まったく違う種からDNAが組み込まれているということが発見されたんです。つまり、人間の中に別の種の遺伝子の破片が見つかるみたいな話。で、その媒介をやってるのが、どうもウイルスらしいと。

たとえば、コロナウイルスはコウモリ由来とも言われていますが、そのときに、コウモリの遺伝子の一部を取ってきて、人間の体に残していくというようなことが起こるかもしれないというわけです。そう考えると、人間を含めた生物というのは、単一の生き物ではなく、色んな生き物の共生体とも言える。たとえば、植物のなかには葉緑体がありますが、これは元々は別の生き物だったんです。植物と共生しているうちに、細胞の中に取り込まれてしまった。

あと、牛なんかも面白いんです。牛は草を食べますが、草の主成分はセルロースですね。セルロースは、人間が食べてもほとんど消化されない。植物というのは、動物が生まれたときに絶滅するかもしれないというくらい困ったわけですよ。なぜなら植物は動かないから、どんどん動物に食べられていくんですね。食われ放題。それでは生き残れないので、セルロースというもので体を守ろうとしたわけです。俺を食べても消化できないよと。

ところが、牛はそれを乗り越える術を見出しました。反すうという技術です。口に入れたものを何度も何度も磨り潰して、細かくする。それを細菌で分解させるんです。だから、牛が生きていくためには、細菌をお腹に住まわせないといけない。そうしないと、死んでしまう。そう考えると、牛というのも単一の生物ではなくて、牛と細菌の共生体だということになるわけです。

人間は土から生じたのか、それとも人間から生じたのか

森:ところで、ウイルスは生きているか生きていないか、どっちだと思います?

N:何かで読みましたが、ウイルスは自己増殖できない。その意味では、無生物だと。

森:無生物。そう、物質なんですね。結晶になったりもします。DNAも単体で取り出すと結晶になる。つまり、単なる物なんです。物なんだけど、どう考えて生き物っぽい活動をしてる言われている。

で、そもそもDNAが生き物の基本になってきた世界が今あるわけですけれど、じゃあその仕組みは、どうやってできてきたのか。いきなりDNAが地球上に生まれるというのはなかなか説明できそうにないので、もうちょっと原始的な形態があったんじゃないかと。それがRNAといわれる物質なんですが、ウイルスというのは、その「RNA王国」とでもいいましょうか、DNAの世界が生まれる前の世界の名残りだともされてるわけです。

S:太古の昔、生物はいなくて、生物のような物質だけが蠢いている世界。想像もつかないですね。

森:ウイルスの原義は、"泥"という意味らしいです。Lewisのラテン語辞書では"a slimy liquid, slime"と説明されています。slimeは「ねば土、軟泥、へどろ」とも「粘液」とも翻訳されます。要は「ねばねばしたもの」で、鉱物(無生物)と生物の境界線にあるもの。妖怪人間ベムもこのイメージから生まれたのだと思います。ヘドロから生まれたへドラって怪獣もいましたよね。

古来、生物はそういう「ねばねばしたもの」から勝手に生じると考えられていました。文化人類学者のレヴィ=ストロースは、昔の人は、人間が土から生じたのか、それとも人間から生じたのかということを真剣に悩んでいて、ギリシャ時代の有名なオイディプス神話は、その悩みに対する解答であるという話をしています。

S:昔の人は、そんなことを真剣に悩んでいたんですね。

森:アリストテレスも、魚は海底の泥から生まれたと書いています。無生物から生物が生まれるという自然発生説が完全に否定されるのは、19世紀の生物学者パスツールの実験によってです。

N:結構、最近のことなんですね。



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森:今だって、子どもはドロドロが大好きですよね。『ロビンソン・クルーソー』は、無人島でも文明を忘れないという物語ですが、ミッシェル・トゥルニエの『フライデー』は、ロビンソンがフライデーに感化されて、野生の身体性を取り戻している物語です。その中に、日光で温められた泥水に浸かって、ドロドロになりながらも至福を感じるシーンがあります。

あるいは、昔Dr.スランプ アラレちゃんというアニメがあったでしょう。アラレちゃんは、棒の先にうんちを付けて走り回ってますよね。手に触れたりはしないけど、棒で突いたりするのは、子どもは意外と好きですよね。さらに言うと、フロイトは、赤ん坊はうんちを大事なものとおもって、それをため込むことがあるなんて言っています。でもいくら愛着があるといっても、いつかは外に出さないといけないし、出されたものを自分の身の回りに置いておいたらきりがない。それこそゴミ屋敷みたいになってしまったら、生活に困りますよね。

だから、これは汚いからダメというようにわざわざ禁止したわけです。つまり、自分のものなのかそうでないのかがはっきりしない状態というのは、人間にとって困る。だから習慣的に、自分から離れていったものは、自分のものではないと考えろという命令が働くわけ。

N:確かに、うんちは汚いと思うけれど、それが体のなかにあるうちは、全くそんなこと思わないですもんね。

森:そう。いったん離れて自分のものでなくなった瞬間に、ものは何も変わっていないんだけど、性質が変わる。人為的にそれは汚いものとされるわけです。

N:僕の場合、耳くそがそうですね。

森:耳くそ。そうですか。

N:はい。掬い上げた直後って、すっごい愛おしさを感じてしまうんです。でも、ティッシュの上に放置してしばらく経つと、これはただの耳くそだなと思う。

森:小学生で、鼻くそをたくさん集めてる子、いますよね。

N:そうそう、それと一緒ですね。僕の場合は、耳くそです。

森:佐田野さん、ごめんなさい。汚い話して。

S:いえ...。

森:でも、私たちはある意味で、人為的な汚さのなかを生きているわけです。自分と自分でないものとの境界線を壊されると困るので、それを人為的に作ってるんですね。で、ウイルスの話に戻りますと、冒頭で言ったように、ウイルスというのは、細胞の膜をはじめとする様々な境界線を破るものの象徴とみなすことができるわけです。私たちは自他の境界があいまいであると困る。

だからATフィールドのような壁を人為的に作るんだけど、それを乗り越えて来るようなものは、まさにAbsolute Terror(絶対恐怖)になるわけです。ウイルスが正体のわからない嫌なものとしてイメージしてしまうのは、こういう境界を侵犯するという意味合いがあるからではないかと思いますね。 

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