シリーズ「コロナと教育」(森秀樹教授インタビュー2)

#インタビュー #コロナと教育 #森秀樹




第2回:Contamination 感染

|話し手|森秀樹 教授 |聞き手|佐田野真代(広報室員)・永井一樹(広報室員)



S:森先生が、哲学に興味を持たれたきっかけは何ですか?

森:私、父親が三年に一度は転勤してたんですよ。だから、私自身は幼稚園が二つ、小学校が三つ、中学校が二つと、よく引っ越していました。環境に馴染んだなと思った頃に、別なところに移っていくわけです。そうするとまた自分のあり方を変えていかなきゃいけない。そういうことって一体何かなっていうのが、哲学に興味を持ったきっかけかもしれません。

 面白いんですよ。行く場所によって、転校生に対する関わり方っていうのが色々と違っていて。最終的には、中学校のときに三重県に移るんですけれど、そこが地方の街の学校でね、わざわざ他のクラスから、「都会」から越してきた私を見にくるんですよ。本当は、そこよりちょっとだけ街から来ただけなのに。何かテレビドラマみたいで、不思議だなと思った記憶があります。

 人というのは、環境との相互作用のなかで、それなりに安定した関係を作っていくというようなイメージがあるんだけど、でも人は移動するでしょ。特に「近代」の人は移動するので、移動していったときに一種の危険な状態を経由して、また安定した状態になっていく。そういうことを、私は子どもの頃から定期的に繰り返していたので、それが影響しているのかなと後付けでは思います。

N:まさに、(先日板書されていた)セーフティーとアドベンチャーが繰り返されたんですね。


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森:そうですね。なので、両方に対して自覚的に動く部分はあります。元来、ものぐさなんですけれど、あんまり閉じこもりすぎると、ちょっと違ったことをやったりとか。同じことを続けていると飽きますね。同じことに集中した方が生産性は高いんですが、そうでないことに興味を持ってしまいます。

N:環境との関係で、自分のあり方が変わるというお話は、エマニュエル・レヴィナスの「他者性」のテーマとリンクしそうですよね。

森:レヴィナスって、他者論で有名なんだけど、実際には<私>について書いています。少なくとも最初の頃の本は。まず<私>がいて、その上で他の人もいるんだというのじゃなくて、<私>というのが生まれるためには他者に晒されるということが必要なんだと。自分が生まれる前からもう他者に取り巻かれている。実際そうじゃないですか。自分が生まれるのって、別に自分で自分を生み出すということではないわけです。そもそも、別にこんなふうに生まれたかったんですけどってお願いをするわけでもなく、この世の中に産み落とされて、知らない者たちに取り巻かれながら、その中で自分というのを作っていくことになるわけです。


エマニュエル・レヴィナス(1906-1995年)

リトアニア出身のユダヤ人哲学者。第二次世界大戦のホロコーストにより親族のほとんどを失い、自身もナチの捕虜収容所に長く収容された経験をもつ。エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に影響を受けながら、「顔」の概念を用いた、独自の他者論や倫理学を展開した。『時間と他者』『全体性と無限』『存在の彼方へ』など。


N:なるほど。

森:ところで、<私>ってなんですかね?

N:<私>...、私って何でしょう。

S:何ですかね?

森:例えば、デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」って言ったように、確かに思ったり考えたりする以上、<私>は存在しなきゃいけないよねっていう実感はたぶんあると思うんです。でも<私>にもいろんな局面があります。<私>ということでよく思い浮かべるのが、主体としての私。<私>はいろんなことを考えて、いろんな行動を取ることができる。でもそれができるのはなぜかっていうと、それを許している環境があるからじゃないのかっていうことが両方考えられるわけです。
ここに貼ってあるのは、アブラハムの絵なんですけど、アブラハムって誰だか知ってます?


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N:アブラハム。名前は聞いたことありますね。

S:聖書ですか。

森:そう。聖書に出てくる、ユダヤ人の族長なんですれど、彼が神様から呼び掛けられるわけです。「おい、いるか」と言われて、「はい、います」って答えたんですね。そしてら、「じゃ、私を信じなさい」って神様に言われて。で、そのことによって、彼はアブラハムになった。つまり、私たちは誰かから呼び掛けられて、何者かになることができるというわけです。

 で、さっき言ったように、私は実にものぐさな質なんです。自分からは、なかなか動きださない。でも、呼び掛けられちゃったら、じゃあ何かしなきゃいけないなということで、動き始めるわけです。つまり<私>というのは、こうやって誰かに呼び掛けられることによって、初めて人格として存在し始めて、いろんな活動を始めることができる。私が物事を始めるんじゃない。私が物事の起点なのではなく、他人とか他の物が起点になっているということなんですね。


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 ここに、「中動相的な在り方」って仰々しく書きましたけど、これは文法用語です。vox media(中動態)と言います。英語の文では能動態と受動態というのがありますよね。中動態は、受動態に近い部分もあるんだけれど、能動態なのか受動態なのかよくわからない状態。ギリシア語やラテン語といった古典語の文法には、能動態とこの中動態という対があった。英語でも再帰代名詞という形でその名残が残っています。たとえば、I enjoy myself。私が私を楽しませるって、一体どっちなんだよって、突っ込みたくなりますよね。いったい私は能動なのか受動なのか、よくわからない。それはつまり、環境との関わりのなかでいろんなことが起こるっていうことを前提とした、動詞の活用の仕方なんだと思います。
それとは反対に、近代は<私>から出発します。

S:主体としての<私>。

森:そう。主体としての<私>。能動としての<私>。中動態は、近代の、能動態と受動態との二項対立の枠組みの中では考えられなかったような、環境と<私>がいろんな関わり合いをするなかで、いろんな出来事が起こっていくっていうことを表現するのに、ちょうどいい概念なのだと思います。

N:種田山頭火の「蜘蛛は網張る 私は私を肯定する」という俳句を思い出しました。肯定する私と肯定される私。蜘蛛という主体と蜘蛛の巣という環境。

森:主体としての<私>は、それを支える環境の網に絡めとられている。つまり、<私>と環境との関わり合いがある。で、その間がサーフェス、表面ですよね。界面って言ってもいいですけれど。それが、人格的な関係の場合には、フェース、つまり顔ですよね。で、レヴィナスはどういうことを言ったかっていうと、ただじっと見つめている。何も言わずにじっと見つめている。そうすると、そうやって見つめられてしまった<私>の側は、何かしなきゃいけないっていうことになる。正にインタビュー(Inter-view)ですよね。私はひとり研究室に隠れて生きていきたいわけですよ。その方が楽でいいので。なんだけど、誰かに覗かれたりして、「いいのか、そんなことで給料もらってていいのか」という目で見つめられると、「いや、ごめんなさい、何かしなきゃ」と発起する。環境に動かされる<私>。<私>に指示する環境。他者に呼ばれて存在し始める<私>。そうなってくると、私は私で自立して存在することができないわけです。椎名林檎の「もっと中迄入って、私の衝動を突き動かしてよ」という歌詞の通りです。ちょっと古いか(笑)。

 哲学者ジャック・デリダの本に「コンタミナシオン」っていう用語があって、私、この言葉が好きなんです。コンタミナシオンというのは、異物混入とか汚染という意味です。私たちは純粋さを求めて、境界線を分けたがるけれど、実はそれは不可能で、私たちはそれこそ蜘蛛の巣のように色々なものが絡まり合っている状態の中で生きていかざるをえないというのです。


ジャック・デリダ(1930 - 2004

アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。哲学がしばしば前提とする、思惟と記号、根源と派生といった二項対立図式が成立しなくなることを精緻な読解を通して示す脱構築を実践した。その後、正義や民主主義を求められるべきものとしてとらえることで、固定化を逃れるものを考えようとした。『エクリチュールと差異』『声と現象』『歓待について』『精神について』など多数。

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