シリーズ「コロナと教育」(森秀樹教授インタビュー3)

#インタビュー #コロナと教育 #森秀樹




第3回:めだかの学校

|話し手|森秀樹 教授 |聞き手|佐田野真代(広報室員)・永井一樹(広報室員)



森:質問ですが、プライベートとパブリック。あなたが幸せを感じるのはどっちですか?

S:パブリック?

森:たとえば、仕事とか、世間と関わっているとき。

N:僕は両方ですね。

森:素晴らしいですね。お金があっても仕事する?

S:私は、しないです(笑)。

森:ここで既に意見が分かれるのが、面白いですね。佐田野さんは、お金があったら仕事しない。ほんとは、自分の好きなことやって生きていきたい。それが自分の幸せだと感じる。でも、世の中に出ていかないと、お金がもらえない。仕事をするのは生活のためだという感覚ですね。こういう感覚って現代では当たり前のように思えるけど、古代ギリシャ人にはなかったものです。

mori_vol3_1.png


 プライベートという言葉は、元々は「奪われた」という意味です。何を奪われているのかというと、公的な世界に出ていくことを奪われている。公的な世界とは、人々の前で演説をして注目を浴びたり、国のために戦ってみんなから認められること。そういうことが幸せだったわけです。逆に、そういう機会を奪われて私的な空間にいるということは、彼らには不遇なことだった。ところが、これが近代だと逆転して、私的な空間の方を充実させたいと感じるようになりました。

「おまえの息子を殺せ」

森:古代ギリシャ人は、ポリスの中に生きていくことが人間であり、世間に出て認められたり、世間の人々とやりとりできることが、人間として幸せなあり方だと思っていました。でも、それって面倒くさいですよね。例えば、昔の村落のことを想像してみたら、わかりやすいですけど、しきたりとかしがらみがあって面倒です。溝掃除とかが定期的に回ってくるし、葬祭があると隣の家まで手伝いに行かなきゃいけなかったりする。家でのんびりくつろぐつもりだったのにできないじゃないか、みたいな話になるわけです。そこで、そういうしがらみから切り離された個人としての生き方のほうが本質的なものとして感じられるようになってくる。ここに板書しましたが、社会契約論で有名なホッブズは、個人が集まって社会ができると考えました。つまり、社会があって、その中に人間が入っていくというんじゃなくて、まず個人というのがばらばらにあって、それをどう集めるのかという風に発想が変わっています。

 それは自分の在り方というものを最優先にしたい。他人に踏み込まれるのは嫌だという今風な考え方につながっています。でもそれだけだと寂しい。そこで親密圏、友達との関係を作って居場所にします。公的な領域までいくと嫌だけど、親しい友達との関係でいろんな欲求を満たすっていうことです。

トマス・ホッブズ(1588-1679年)

17世紀を代表する哲学者。唯物論の立場にたち、あらゆる現象を機械論的に考えた。人間もまた、外界からの刺激によって快を求め、不快を避ける一種の機械であるとみなした。このような人間が集まると「闘争状態」に陥ってしまうが、やがて、自己保存のために自然なあり方を制限するという自然法を発見し、国家を形成すると考えた。主著『リヴァイアサン』。


 "マイルドヤンキー"って言葉があります。都会に行くよりは友達とまったりと過ごすのがいいという、そういう生き方だそうです。例えば、コロナで休校になったのはうれしいんだけど、友達に会えないのは悲しいとよく耳にします。個人を優先する立場に立てば、コロナ禍で接触が制限されるってことは楽ちんでいいことです。リモートワークになったら、行かなくていいからすっごいうれしいとなるわけです。人によるかもしれませんけど。学生も通学しなくていいとか、煩わしいことをしなくていいという意味で評価する向きもある。でも、そういうことによって親密圏、つまり同じクラスの子と会えないということは、ダメージになる。巣ごもりというのは、他人に会わなきゃいけないとかいったノイズを減らすんだけど、ストレスにもなるわけです。

 で、そのなかで何が起こるのかというと、例えば、ネットなんかでつながったりするわけですが、そのとき人はノイズを選ばないですよね。ネットで何か情報を集めるときに、ノイズになりそうなものを意図的に読んだりしない。自分にとって心地いいもの、楽しいものを選ぶ。そうすると、どうしても知っているものしか選ばない。あんまり"ウイルス"に出会わないってことですね。

N:私最近、カミュの『ペスト』を読んでるんですけど、ペストの流行によって人々が自宅待機を迫られる状況を、カミュは「自宅への流刑」と表現しています。さっきプライベートの語源のお話がありましたけど、パンデミック下での自宅待機って、本当の意味で公的な世界に出ることを奪われた状況なのだなと思いました。

 『ペスト』を読んでいると、本当にコロナ禍と酷似している点が多くてびっくりするんですけど、決定的に違うのは、『ペスト』の時代(1940年代)にはインターネットがなかったということ。物語の舞台であるオランという町は、交通が遮断されるどころか、電話もできない。10文字くらいの電報だけが許されるという、隔絶した世界なんです。それに比べれば、オンラインでつながれるということは何と豊かなことかと思うのですが、でもそうだからといって、孤独が癒されるかというと、そうでもないところが気持ち悪いんですよね。


mori_vol3_2.png


森:そうですね。オンラインというのは、有効な話ではあると思うんです。ただ、細い糸なんですよね。しかも、選択的なものです。だから、予定調和になることができるんです。傷つけられないで済む。嫌になったら、切ればいいので。

 アブラハム(2話参照)が神様からもらったお告げは「おまえの息子を殺せ」だったんです。「でも、困ったな、息子はすごい大事なんだけど」とアブラハムは思うわけです。「でも、神様が言うんだから仕方ない」と信じて、本当に殺そうとしたとき、神様が「分かった、おまえはちゃんと俺のこと信じていることが分かった。だから殺すな。おまえはいいやつだ」っていう話なんです。つまり、個人の根本から覆すような呼び掛けが、ここで起きたんですけれど、ネットではたぶんそれは生じない。そんなこと言われたら、「知るかっ」と言って、関係を切ることができるのです。つまり、主体としての私を守ることのできるような環境に自分でコントロールすることができる。防御壁(ATフィールド)(第1話参照)がちゃんとあるわけです。

喪に服すということ

森:だから、あんまり心から揺さぶられるってことはなく、予定調和的な世界の中で生きていくっていうことができる。そのなかで、最も深刻なのは、死を悼むことができないという事態だと思います。コロナウイルスにかかると、身体に触れることができない。

 私、去年の3月に母親を亡くしたんですけれど、亡くなった翌日に火葬場が空いてなくて、二日間ぐらいずっと死体と一緒に過ごしたんですよ。で、人が死ぬというのはどういうことなのかなと延々と考えざるをえなかったんです。私、自分の小さい時の記憶ってほとんどないんですね。で、誰がそれを知っているかというと、自分の親なわけです。確かめておきたいなと思ったこともあったんですが、それがごっそり消滅してしまう。つまり、私の半分を持っていってしまう。あるいはその人が考えてきたこと、思ったことの全てがこの世の中からなくなってしまう。そういう取り返しの付かないようなことが起こるんだけれども、それを生き残った人は受け入れなきゃいけない。

 それが、(ここに板書しましたけれど)喪に服すということなんだと思います。ドイツ語ではトラウアーといって、もともとは「悲しみ」という意味なんですが、それを自分の中に引き受けなきゃいけない。喪とはそういう事態と一緒に過ごしていくということです。それは、たぶん生き方を作り直すということなんだと思います。


mori_vol3_3.png

 ところが、そういうことは、オンラインでは恐らく起こらない。そういう、自分に踏み込まれた状態、他の物に踏み込まれた状態で、何とかやっていくっていうことが、たぶん生きていくことにとても大事だと思うんだけれど、そこのところがオンラインでは難しいんだろうなと思います。

 だから、たぶんネットがあるからといって「自宅への流刑」がなくなるわけじゃない。オンラインで人と会うことはできるんだけれど、でもそこには何かが欠けている。例えば、「身体性」ですね。目の前に人がいて、こうやってじっと見られている。私が恥ずかしそうにしたら、その瞬間受け取られちゃうわけです。でもネットだったら、パチッと切れる。そういうところが、ネットとリアルの間では違いますよね。で、学校がオンラインでもできるじゃないっていう言説が一方にあるんだけど、できることとできないことが恐らくあるだろうっていう話につながっていくと思います。

学校という営みと学校という場所とを分けて考える

森:昨年、学校が一律休校になったとき、確かに、宿題とか自己学習とかオンライン授業とか、やれることをやったらほんとにいろいろできましたよね。私のゼミに中学校の現職の先生がいるんですけど、彼は、それまでは"教える授業"作りをやっていた。つまり、生徒に対して、こういうことを教えてあげたい、それを教えるためにどうすればいいかという視点で、授業を作っていたというんです。授業って普通はそういうものだし、ネット上でもそれをやってる人がいますよね。たとえば、YouTuberとか。いろんな授業がアップロードされてて、確かに面白い。エンターテインメントとしても面白かったりする。でも、上手に教えることが学校の本質的な部分かというと、違うと思ったそうなんですね。じゃあ本質的な部分は何かというと、教えることじゃなくて、各自に学ばせるための環境づくりではないかと思ったと。つまり、教師が生徒に教えるのではなくて、生徒が学べる環境を、どう教師がコーディネートできるかというところに着眼点が移っていった。で、何をやったかというと、子どもが子どもに説明をするという作業をさせたんです。対面に戻ってからも、そうしてると言っていました。これは、すごく面白い話だなと思います。

S:めだかの学校ですね。

森:めだかの学校?

S:誰が生徒か先生か、わからない学校(笑)。

森:ああ、なるほど。オンライン授業でもいろいろできることはあるんだけど、逆にどうしても難しいものもあります。例えば、人が一緒に居合わせて言葉を交わしたり互いに見合ったりすることを通じて、共同体を作ったり、協働したりすることですね。めだかの学校も正にそんな雰囲気ですよね。みんなでお遊戯したりして。もちろん、オンラインでもそういうことは部分的にはできるんだけど、何か欠けてるところがあって、それがたぶん身体性なのだと思います。

 そういう風に考えてくることで、学校でやるべきことの中心となるものが見えてくるような気がします。一方に、出会ってしまっているという関係の中で、否応なく協働的にならざるをえないようなことがある。これはどうしてもなくせない。けれど、これまで学校でやってきたけれど、学校でやらなきゃならないというわけではないものもあるかもしれません。知識をあたえたり、反復練習させたりすることであれば、教材を与えるだけで十分ということもありえます。反転授業だと、学校でやるべきことをするためであれば、知識などの習得は学校で必ずしもやらなくてもいいと考えます。こういうことが際立ってきていると思います。

mori_vol3_4.png


 でもだからといって、学校と学校外という風に分離していいとも思いません。学校外での学習だって学校での活動とつながって意味をもちます。学校という営みと学校という場所とを分けて考える必要が出てきているのかもしれません。改めて、学校はどこにあるのかと問い直してみると、学校というのは、もはや空間的な場所として考える必要はなくて、""として考えてみてもいいのかなと思ったりしています。どういうことかというと、教師から生徒に、あるいは生徒から教師に、何かが働く関係があればいいわけです。それは原初的には身体性に裏付けられる必要があるけれど、その核がしっかり形成されれば、特定の場所に縛られなくてもいい。場合によっては、オンラインで離れていてもかまわない。参加者が学ぶことのできるやりとりが生じさえしたら、それでいいということになります。

 逆に、空間的な場所に限定すると困ることも考えられます。教室という場所には、教師が教科書を説明し、生徒に伝達するという枠組みを固定化してしまう傾向があります。現職の先生が本学に学びに来られます。普段は黒板の前に立って、生徒に「もっと参加しなさい」とかって言っているわけです。ところが、ほんとに不思議なんだけれど、席に座った瞬間、パッッと受動的になることがよくある。教室の中で教える者と教えられる者との関係が固定化されてしまう。だから、私はどうするかというと、前後を入れ替えるんです。黒板の前に教師がいたら駄目で、後ろのほうに行くんですよね。それで、「あなたの方が前にいるから何か書いてよ」みたいなことを言うわけです。そういう関係性を作り出すことが重要で、そのためには教室っていう場所は必ずしも必要ではない。下手をしたら、それが邪魔になるときもあるわけです。

mori_vol3_5.png
 

 あ、気づいたら、教室の中みたいに私ばかりがしゃべってますね。

 これまでの話を全部つなげて言うと、「感染(Contamination)」(第2話参照)の不可避性と必要性ですかね。自分に都合のいい世界っていうのは、世の中にはない。思いがけないものが介入してきてややこしいことになることが、避けられない。でも、それこそが、同時に私を私として成り立たせる。呼び掛けられてしまって、「チェッっ」とか舌打ちしながらでもいいんだけれど、「じゃあどうしようか」っていうところに「私」っていうものが育っていくのだから、「感染」は必要なものでもある。で、そのことに対して怒ったり、こんなの嫌だと言ったり、ストレスになったりすることもあるかもしれないけれど、それをなんとかやり過ごしながら、むしろ、豊かな可能性なんじゃないかと思って生きていく。それが、ウイルスさんから教えてもらったことなんじゃないかなと、私は考えています。(了)

← 第1回にもどる
← 第2回にもどる



profile_mori_bannar3.png