オーロラに恋して:植木陸仁フィンランド留学記(第1話)

エッセイ フィンランド 学生 留学

植木陸仁、21歳。現在、フィンランド留学中。
幼少期にシカゴに住んでいた経験もあり、英語とヒップホップが大好き。
高校時代から自分で音楽を作るようになり、今では二人組ユニット「Stan Crap」としてCDデビューまで果たす。
でも、将来は父と兄の背中を追って、あくまで教職の道をめざし、勉学に励む日々。
社会人になる前にもっと自分を裸にしなくては。そんな意気込みで飛び込んだフィンランドで、彼が見たこと考えたことを綴ります。


第1回:フィンランドへ留学するまで

 私は幼少期に父の仕事の関係で3年間、アメリカのシカゴに住んでいた。まだ幼かった私は何も分からないまま、現地の幼稚園に通っていた。英語は全く話せなかったけど、仲良くしてくれる友達がいて、特に孤独を感じる事はなく楽しく過ごした。今でも鮮明に覚えてる、アメリカで一番楽しかったイベントがハロウィンだ。私が住んでいた地域では子供たちは仮装したまま学校へ向かう。学校では先生も仮装していて、みんなでお菓子を交換する。学校が終わって家に帰った後、子供たちは街へ出かける。いろんなお家をまわって、『Trick or Treat!!』と叫ぶ。すると、お家の人がお菓子をくれる。中にはお家をお化け屋敷みたいに改造している人もいて、みんなでそのお家のアトラクションを楽しんだりした。帰る頃にはバケツいっぱいのキャンディーにチョコレート。ハロウィンの後、ひどい虫歯になって大変な思いをしたのも、私のハロウィンの思い出だ。

ueki_1-2.png右が植木陸仁さん。兄と弟と。

 振り返って見るとアメリカでの経験が、英語や異文化に興味を持った大きなきっかけになったと思う。そして高校1年生の冬、学校でオーストラリア留学についての案内があった。当時の私の担任の先生は英語科担当で、私が英語や異文化に興味がある話をすると、熱心に聞いてくださり、背中を押して下さった。先生はとにかくパワフルで、これまで出会ったどんな先生よりも親身になって私たちと関わって下さった。そして何より、湧き上がる情熱のようなものを感じた。今考えると、この先生と出会わなかったら、私は留学を決断することは出来なかったと思う。それから時は経ち、私は高校2年生になった。しかしこの頃から、その先生は学校を休むようになり、遂には先生を学校で見かける事はほとんど無くなった。みんな先生を心配していたけれど、事情を詳しく知る者はいなかった。
 同じ年の夏、オーストラリアへ2週間留学した。初めての留学経験だったが、2週間はあっという間に過ぎてしまった。留学期間中は現地の家庭にホームステイし、現地の高校に通った。いろんな所に連れて行ってもらった。たくさんの出会いがあり、貴重な経験を積むことができた。


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 そして高校3年生になり、自分の進路について真剣に考えるようになった。この頃、しばらく学校で見かけなかった英語の先生が学校に帰ってきた。以前と比べて少し痩せているように感じたが、相変わらずパワフルな授業で私たちは心底安心した。私には3つ歳の離れた兄と弟がいる。私は心のどこかでいつも兄に憧れていた。ずっとその背中を追ってきた。兄が中学でテニス部に入ると、私も中学でテニス部に入り、兄が高校でバドミントン部に入ると、私も後を追うように高校でバドミントン部に入った。そんな兄は父と同じ教員を志しており、兵庫教育大学に在籍していた。私にとって教職とは、幼い頃から憧れていたものではなく、父や兄の姿を見てずっと意識していた職業であった。当時の私にとって他の職業に興味は無く、ただただ漠然と自分の将来について考えた時に、自然と教職という職業が私の中に残っていた。

 夏の終わり頃、誰もが耳を疑う連絡があった。元気に帰って来たはずの英語の先生が、亡くなった。私だけでなく、学校の中でも先生の存在はとても大きかった。私たちは言葉では言い表せない深い悲しみに暮れた。先生は不治の病に侵されていて、もう長くはもたないとも宣告されていたらしい。けれどそんな状態でも、私たちと過ごしている時間だけは痛みや辛さを忘れる事ができると、先生は教壇に立ち続けた。私たちに一切弱みを見せない人だった。教壇から、先生は一体どんな景色を見ていたのだろうか。私も先生と同じ景色を見てみたいと思った。いつか誰かの人生に真剣に寄り添って、共に悩んで、時にはその背中を押してあげたい。この頃から、私は明確に教員を志すようになった。先生は今でも、私たちの背中を押してくれている。(つづく)



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