2025年01月31日(水) 院生リレーコラム
#010. 中間玲子先生の薫陶に寄せて (2018年入学・橋本 和也)
〈教育コミュニケーションとは何であるか〉,これは本コースの根幹をなす問いです。
私は2018年の春に入学し,休学などを挟みながら2024年の秋に修了するまでの間,この問いについて幾度も考えました。『教育コミュニケーション論』のまえがきには,「教育コミュニケーション」という言葉の解釈について7つの例[pp.vi-vii]が挙げられています。私が中間先生から受けた薫陶を今振り返ると,その教えは「教育についてのコミュニケーション」でも「教育におけるコミュニケーション」でもなく,「コミュニケーションとしての教育」であったと私は思います。
中間先生が旅立たれた今となっては,どのような思いで接してくださったのかは知る由もありません。あくまで,以下は私の主観であることをお断りした上で続けます。
入学して間もなく,私は中間先生と,私の指導教員となる平野亮先生が課外にされていた読書会に参加させていただくこととなりました。そこでは同じテキストを読み,両先生はその解釈をお互いに引くことなく議論され,その知見の深さとともに研究者としての人となりを垣間見たことが,テキストの内容以上にこの読書会での最大の学びでした。「コミュニケーション」を通して手本を示してくださったのだと思います。
その後,修士論文を本格的に執筆してゆく時期となり,縁あって中間先生が私の主指導教員を引き受けてくださいました。M.フーコーに依拠して〈主体〉を研究テーマにしていた私にとって,自己論を専門にされている中間先生と,「フーコーの道具箱」の使い手である平野先生にご指導いただいくという贅沢な大学院生活を送らせていただくことになりました。
しかし,修了の約一年前となる2023年の7月19日,中間先生から「癌を患った」というメールが届きました。定期的に入院を挟みながら療養しなくてはならないとのこと。「ものすごく元気に過ごしていますので,ご心配なくです。」との言葉が添えられており,また暑い夏でしたので「無理しすぎないように,水分をとってお過ごしくださいますように。」と私を気遣う言葉もありました。私は先生が亡くなる直前までこの言葉を信じて,元気になって戻られると思っていました。その後も先生は会いに来てくださり,修士論文のご指摘や励ましをいただくことはもちろん,楽しく談笑させていただいていましたので。
ところが,中間先生は本格的に療養に入られることとなり,主指導教員を交代せねばならないという話になりました。致し方ないことと私は受け止めていましたが,2024年2月29日の朝,中間先生から思いもよらないメールをいただきました。「在宅勤務を挟みながら8月末まで病気休暇と有給休暇を引き延ばせれば,最後の審査まで担える」「そしたら,(私が)修論に「主指導・中間玲子」を公式に刻める」「ギリギリまで主指導教員でいさせてもらおうかな,と思い直しました」と。
審査用の修士論文のファイルを病室にもって伺ったときに,不自由になられた体をおして何度もページをめくってみておられたことが今でも忘れられません。すでに言葉を交わすことはできませんでしたが,強く手を握っていただきました。厳しくご指摘をいただくべきところが多くあったのではないかと思います。
中間先生は8月13日に逝かれました。何とか書き終えた私の修士論文は,8月19日の通夜に参列した際に棺に納めさせていただき,その足で大学に提出しました。主指導教員としての最終確認をお待ちいただけたことを感謝しております。
中間先生は「特定の関係を持つ子どもと大人の間で展開される日常的なやりとりは,その子どもの人間形成を考えるうえで非常に重要な教育的行為としての側面を有している」[『教育コミュニケーション論』,p.50]と書かれています。この関係は年齢的な「大人」・「子ども」だけでなく師弟の関係も包含する「大人」と「子ども」という言葉であると思います。私が入学して最初に受けたのが,中間先生の「かかわりの発達心理学」という授業でした。その第一回目で先生は浜田寿美男をひいて「万人を年齢に当てはめてよいのか」という問いを投げかけられたことを思い出します。
私は中間先生との学校内外での,ここには書ききれないほどの「日常的なやりとり」のなかで多くのことを学ばせていただきました。
もはやご恩返しをすることはかないませんが,恩送りとして,中間先生が「大人」として見せてくださった「コミュニケーションとしての教育」をお手本に,私の「子ども」たちに示してまいりたいと思っております。
私がそちらに行きましたら,また楽しくお話させてください。そしてご指導の続きをよろしくお願いいたします。